学校の概況と歴史

校区の概況

 下知地区が,ほぼ現在のような地形に成形されたのは江戸時代初期だと思われる。もとは土佐郡下知村で,下知の名は,昔上知寄,下知寄と呼ばれた地域があり,下知寄の寄を省略した呼び方であるといわれている。大正15年土佐郡下知町及び潮江村が高知市に合併されている。昭和30年代は,学校の東はまだまだ田園風景が残っていたが,40年代に入ってから急速に都市化が進んだ。

 校区は,略地図のごとく,北に向いて大きく口を開けたオタマジャクシの形をしている。背中は久万川・国分川。顎から腹部は堀川・鏡川。尻尾を浦戸湾奥部に浸しているようにも見える。上顎にあたる北・南川添,北・南御座,北・南久保地区は国道32号線や県道大津北本町線が通る交通至便の地域である。道路に沿って,流通関係の事業所・団地・住宅が立地している。

 周辺には,今も広い農地が広がっている。今後は高知市東部・北部の玄関口として発展することが期待されている。下顎のようにも見える下知地区のうち,桜井町・弥生町等は,戦災の少なかった地域で,その分都市整備が遅れている。電車道など一部幹線道路を除いては,狭隆な道路や公園を取り囲んで住宅が密集し,防災上も課題のある地域である。

 しかし,交通は便利で,文教施設もあり,地域住民の文化・経済活動は,いたって活発である。国道32号線の南側に当たる二葉町・青柳町など下知南部は,住環境が整備され,鏡川沿い等には高層マンションの建設が進み,人口も増加している。

 喉から胴体の部分にあたる稲荷町・丸池町は,工業系の施設・建物を中心に住宅地が形成されている。尾部にあたる弘化台は,高知市中央卸売市場の他,食料品を中心とした流通系企業の集積地であり,高知市の台所の役割を担っている。

学校の概況

 本校は,昭和7年4月1日,ここ高知市下知字原分・井添の地に,下知尋常小学校及び第五尋常小学校を合併して高知市立昭和尋常小学校として誕生した。当時の児童数は1,434名。学級数は24である。

 昭和7年10月30日に落成したピンク色の校舎は,その偉容と優美さ故に校区住民を驚かせたものであった。注目すべきは開校の年に教育5力年計画が作成され,翌年昭和8年12月1日には新興昭和の教育を批評してもらう意味から,早くも自主的な研究会を開催していることである。

 この5力年計画に基づく教育活動の成功は,「東の昭和」の名声を高め,その後の昭和小学校教育に継承され,昭和の伝統となっていく。昭和16年4月1日付で「国民学校令」に基づき,校名が昭和国民学校に改称されたが,戦争末期には一時児童数が209名にまで減少する。

 戦後,児童数は年を追って増加し,昭和26年には1,815名となり,運動場狭小による運動不足と事故の発生が心配されるほどになる。そこで,運動場の東の田1,300坪を買収,また1棟6教室の増築が北舎の北側になされた。昭和45年8月21日,台風10号が来襲。校区の全域にわたって浸水し,学校も床上45センチメートルにまで浸水した。この災害もあって,校舎の老朽化は進行し,昭和57年12月5日,創立50周年記念式典とともに現在の校舎の落成式が行われるに至った。

 本校は,昭和52・53年の2か年にわたって高知市教育研究所の研究協力校の指定を受け,新しい教育の創造にむけて研究を行った。その成果として「かがやきの日」という総合学習が生まれたのである。この先進的な研究体制は,その後も脈々と受け継がれ,昭和61年には,第37回放送教育全国大会,平成8年度には第31回全国社会科教育研究大会の会場校として一定の評価を受けている。さらに平成11年度はこれまでの取り組みをベースとして,松下視聴覚教育研究財団の指定を受け,平成11年度全国視聴覚教育研究会の会場校としてこれまでの研究の成果を発表した。平成12年度・13年度は,新教育課程への移行をふまえて,これまでの研究成果をまとめながら,「総合的な学習の時間」のカリキュラム編成に取り組んでいくこととなった。

 新教育課程全面実施の平成14年度からは,3か年にわたって高知市教育研究所の研究協力校の指定を受けることになり,生活科,社会科,情報教育を3本柱にした教育の創造をめざして研究に取り組んでおり,平成16年11月5日(金)に研究発表会を実施した。平成22年・23年・24年度は,高知県教育委員会新教育課程拠点校指定事業の指定を受け,新教育課程拠点校(社会科)研究発表会を行ってきた。それと並行して,平成22年11月12日には,高知県社会科教育研究大会も開催し,社会科授業づくりの提案を発信し続けてきた。そして,平成24年11月9日には,高知県では初開催の「全国小学校社会科研究協議会研究大会」の第50回大会第2会場校として,公開授業はもとより,公開授業についての学年別授業研究会,全国の先生方からの様々な授業の実践研究の共有の機会となった学年別課題研究会等を行った。

1979年 校区航空写真

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